場違いな言葉 ー 本質を見失うと意味も失う
あるニュースを目にして非常に驚きました。
ウクライナのザポリージャ原発が攻撃されました。ロシアとウクライナの双方が、相手が攻撃をしたと非難合戦を繰り広げています。
ある参議院議員がこのことに対して、『日本のニュースは、ウクライナ側の発表を扱うことが圧倒的に多く、ロシア側の発表を扱う量が少ない』と、この報道のあり方に問題が無いのかと疑問を呈していると言うのです。
この議員としては、現在の報道のあり方が不公平だと思っているようで、『ウクライナが善でロシアが悪と言うイメージとなっており、この受け止め方は正しいのだろうか?』と疑問を呈した上で、『現在の正しくない情報で判断してはいけないと思う』と発言しているとのことです。
一体、何を前提として正しくない情報と断定しているのでしょうか?
ロシアによるウクライナ侵攻と、この原発への攻撃は別ですか?
確かに通常の問題ならば、この議員が指摘している通り双方にそれぞれの正義があり、マスコミは双方の意見を聞いた上で報道するべきだと思います。
ただ、今回の問題に関しては、その起点が何であるのかをきっちりと考えるべきです。そもそもロシアによるウクライナ侵攻さえ無ければ、こんな議論自体がおこらないのです。
この議員はウクライナ侵攻直後に、ウクライナやアメリカにも責任があると発言しています。つまり、今回のロシアがウクライナ人を虐殺するのは、ウクライナとアメリカにも原因があるからだと言っているようでした。これは私たちだけの受け止め方なのかもしれませんが、この議員は、虐殺したロシアを責めるのでは無く、ウクライナがロシアに従わなかったことを非難しているように聞こえました。
ただ、この議員の『ロシアによるウクライナ侵攻』についての考えが理解できた気がします。
繰り返しますが、ロシアの武力によるウクライナ侵攻が無ければ、こんな議論すらおこらなかったのです。
少し話が変わりますが、テレビ番組では時事問題以外に(公人や著名人などの)個人の問題を取り上げています。その番組の中でコメンテーターと言われる人達は、いろいろな意見を述べています。
このコメンテーター言われる人達は、芸人や芸能人そして著名人や学者・専門家と言われる人達です。
多くのコメントが言論の自由として扱われる範疇です。
しかし、自身の考え方や思想と異なる公人や著名人に対して、よってたかって非常に強烈な批判(内容的には誹謗中傷とも言える)を繰り返しているのを見ることがあります。さらに、相手の考え方や思想を一切受け入れず、間違いだとまで言い切ることもあります。(おかしなことに、このような人達の多くが、多様性を受け入れろと言っていることです。)
問題として提起される事柄の多くは、双方向に当事者が存在します。それら双方の目線で正しく伝えることこそが、マスコミだと思っていました。この考え方は間違いだったのかもしれません。
同じ番組内で多様性や民主主義は重要性を主張しており、いろんな考え方や思想があることは理解できているはずです。さらに、子供のいじめ問題を取り上げることもあります。
私達は、テレビ番組での発言は、個人の発言ではなくテレビ局の公式な見解だと捉えています。テレビ局は、公共の電波を使用しているからです。(また、リツイートですら、個人の発言として有罪となるため)
もし、子供達がこれらテレビ番組を見て、同じことをある特定の子供に行ったとしたら、それはいじめにはならないのでしょうか?
それとも、マスコミは、何をしても許されるべき特別な存在だと思っているのでしょうか?
つまり、自分たちの考え方や思想のみが正しく、正しいことを教えてやってるんだと思っているのでしょうか?
私たちは、これこそダブルスタンダードの見本だと思っています。
いくら言論の自由があるとしても、テレビ番組や著名人の発言は視聴者へ与える影響は多大であり、発言には注意が必要だということを考えるべきです。
以上
2022/09/24 – 2025/11/29