男女の平等を考える

近年、「国会議員には女性議員が少ない」、「日本は企業の女性役員の数が少ない」、「ある大学(学部)には女性が少ない」、というようなことを耳にすることがあります。
実際、この流れにより女性の役員登用を増やしている企業もあります。

このような主張の平等では、考慮すべきことが有ると思います。
・機会が平等であるのか?
・結果の数が平等であるべきなのか?
前述した議論は、後者である「結果の数が平等であるべき」だと言っているように感じます。

これって、本当に男女の平等なんでしょうか?

機会が平等であるのか?

この平等は非常に重要なことだと思います。別の投稿で述べましたが『生物学的性別に与えられた権利』があり、それらを除いては機会は平等であるべきだと思います。(※生物的性別の権利の代表例 – トイレ・お風呂・更衣室・スポーツなど)
以前は日本企業の募集要項で、男性何名・女性何名などと分けて募集していた時代がありました。これは、おそらく男女別で働ける職種を定義していたのだと思います。現在は、あらゆる職業・職種で男女の区別をすること無く募集をしています。
また、看護師についても女性を看護婦、男性を看護士と区別して標記していましたが、ポリティカル・コレクトネスの推奨により男女の区別をしない看護師として標記し、確かに男性看護師が増えてきています。

但し、機会の平等を意図して作るため、やりたくないことを強要することは絶対にやってはならないことです。
作為的な平等は禁じられるべきです。これは平等というよリ、強制ということになります。
機会の平等における選択権は、あくまで個人にあるべきです。

国技である大相撲には「土俵は女人禁制」という伝統(誰もこの伝統を明確に説明していない)があるとのことです。
そのため、救命緊急時の対応に当たった女性に『女性は土俵から降りてください』と言い続けたことや、当時の森山真弓官房長官が大相撲の内閣総理大臣杯の授与式を行いたいと話してましたが日本大相撲協会から女人禁制を盾に拒否されたことがありました。
日本大相撲協会は、真剣に考える時期が来ているのでは無いでしょうか?
例えば、男女に関係なく、授与式の時は土俵全体にカバーを掛けて実施するなどです。

結果の数が平等であるべきなのか?

結果の数が同じだったとしても、同じ機会を与えられた人が同じ基準において選択された結果であれば問題無いと思います。
しかし、結果の数を平等にするために、選択する際に意図が入るようでは逆に不平等になるのでは無いでしょうか?
つまり、このケースは、非常に作為的の結果であり、見た目の数を合わさるために行われる地下差別と言えるでしょう。
極論を言えば、結果である人数を平等にするため、入学試験で数百点も点数の低い人を合格にすることだってありえるわけです。

国会議員には女性議員の比率が少なく、日本ではまだ男女差別があるとの声が聞かれますが、何を求めているのでしょうか?
もしかして、女性議員には1票を10票として扱わうなどしなければ男女差別だと言っているのでしょうか?
投票結果は無視して、当選者の人数を調整するべきだと言ってますか?
それなら選挙なんて必要無いと思います。
問題を投票結果にすることが的外れです。機会の平等はあり、女性の方が立候補することに問題は無いのですが、議員になろうとする女性が少ないことが問題だと思います。女性に立候補を強制してはいけませんが、なぜ、女性の立候補者が少ないのかを検討するべきでは無いでしょうか?
この問題も、前述した日本相撲協会の伝統に似ているような気がします。


参考:産経新聞 (2024/02/11)
https://www.sankei.com/article/20180405-QIOSC5D24FIL3LG7XRJQZ5IL7Y/

参考:読売新聞オンライン (2024/02/11)
https://www.yomiuri.co.jp/column/japanesehistory/20220214-OYT8T50147/


以上
2024/02/11